A.C ミラン 〜 戦力外




 1995年7月20日
 A.Cミランの練習場ミラネッロでのキャンプ初日数千人のミラニスタが押し寄せる 
 おかげで、ピンコリーニ・コーチが渋滞に巻き込まれ遅刻する騒ぎも
 8月18日
 ベルルスコーニ杯で早々に古巣ユヴェントスと対戦90分で決着がつかず
 PK戦へバッジョはPKを決めるがトータルでユヴェントスの勝利となる
 8月27日
 '95-96シーズン開幕 このシーズンからセリエAは背番号の固定制を導入
 第1節パト゜ウ゜ァVSA.Cミラン バッジョ18番を付けて先発出場するが
 後半30分に交代する。 18番は自身の誕生日18日から取ったもの
 10番はサヴィチェビッチがずっと付けている
 9月6日
 ヨーロッパ選手権予選 ウディネーゼでの イタリアvsスロヴェニア戦 ( 1-0 )
 久しぶりに代表入りする。 ベンチから、後半30分にゾラと交代出場する
 9月10日
 第2節 A.CミランVSウディネーゼ戦で85分にミラン初ゴールを決める
 10月
 改めて移籍についてのインタヴュー「心の中ではいつかはと感じていたのかも
 しれないトリノでの5年間はいつでも出て行けるようカバンを準備しながらプレー
 しているようだった。 ヴィチェンツァやフィレンツェでもそうだったようにね」
 プレーはいつまで続けるのか??
 「よく年をとればとるほど引退しづらくなるって言うけど
 もしかしたら私もその口かもしれないね」
 またバッジョの移籍について当時チームメイトの
 G・ヴィアッリがユヴェントスから移籍
 するよう動いたというウワサがありますが真実ですか??
 「直接ヴィアッリに尋ねたこどがあるけど、真実は私にも知らない」と
 深い苦悩を珍しく吐露する
 1996年 新年
 池田名誉会長に特製ブルゾンとA.Cミランの10番のユニフォームを贈呈する
 ユニフォームには「私達の心は、あなたのそばにあります」というメッセージと
 自身と家族のサインを認めて
 また、関西創価学園には18番のユニフォームを「関西創価学園にささげる
 最大の友情を込めて」とメッセージを込め贈る
 4月28日 - 29歳
 ジュゼッペ・メアッツァでの32節 A.CミランVSフィオレンティーナ戦で個人として
 2年連続のスクデットを獲得するA.Cミランは15回目のスクデット
 バッジョは45分にジョージ・ウェアの得たPKを決め彼にしては珍しく
 コーナーフラッグでユニフォームを高く掲げる派手なパフォーマンスをする
 このシーズンはカペッロ監督の考えるシステムにより先発出場も少なくベンチに
 いる時間が多くなっていた
 6月
 イングランドでの'96ヨーロッパ選手権のイタリア代表に選出されず
 監督はアリゴ・サッキ氏 イタリアはグループ・リーグ敗戦
 1996年9月11日
 ジュゼッペ・メアッツァでのA.CミランVSポルト戦でUEFAチャンピオンズ・リーグ
 デヴューするが2−3で敗れる 監督はタバレス氏
 10月30日
 ジュゼッペ・メアッツァでの対IFKイエーテボリ戦 ( 4-2 ) で後半途中から出場し
 90分にUEFAチャンピオンズ・リーグ初ゴールをあげる
 12月2日
 A.Cミランの監督 タバレス氏がチームの不振で解任
 後任に、あのアリゴ・サッキ氏が就任
 12月4日
 ジュゼッペ・メアッツァでのUEFAチャンピオンズ・リーグ
 グループ・リーグ第6戦で引き分け以上なら決勝トーナメント進出
 だったがローゼンボリに1−2でまさかの
 敗戦でグループ・リーグ敗退が決定する
 バッジョは先発出場し前半終了間際にゴール前のポストプレーでデュガリーの
 同点ゴールをアシストするがサッキ監督はバッジョを前半のみで交代させる
 サッキ監督になりバッジョの出場回数もへり、ベンチやスタンドで彼の姿を
 見る事が多くなる。 また、PKのキッカーもバッジョからアルベルティーニへ
 サッキ監督は変更してしまう
 バッジョは移籍も見当に入れたがインテルのモラッティ会長は1年前にバッジョに
 拒否された事を忘れておらず
 「バッジョがネロアズーリのユニフォームを見る事はないだろう」とコメントする
 結局バッジョはイタリア国外も含めて移籍せず残留
 一方バッジョのライバルと言われたジャン・フランコ・ゾラはイングラント゛の
 チェルシーへ移籍する
 バッジョ「サッキ監督は私の練習をよく見てくれる調子がいいようだねと
 声もかけてくれるだが、試合には出してくれない」とコメントする
 1997年4月6日 - 30歳
 第26節 A.CミランVSユヴェントス戦 ( 1-6 ) で歴史的大敗をきっする
 バッジョはベンチ・スタートだったが後半4分にユヴェントスのユーゴヴッィチに
 3点目を取られるとミラニスタから「ロベルト・バッジョ」の大歓声がスタジアムに
 こだましバッジョの出場をサッキ監督にうながす
 この時、バッジョのいたたまれない表情をTVが捉える
 後半15分に出場しコーナーキックを蹴りミラン唯一の得点のシモーネの
 ダイレクト・ボレーのゴールをアシストする
 4月13日
 第27節 ミラン・ダービー インテルVSミラン ( 3-1 ) で敗戦
 試合はミラニスタの怒りの発煙筒で異常な雰囲気となり度々中断する
 バッジョは先発出場し88分にミラン唯一の得点をあげるがミラニスタの怒りは
 おさまらなかった
 4月30日
 イタリア代表復帰 '94W杯準決勝ブルガリア戦以来1020日振りのゴールを決める
 ナポリでの'98W杯欧州予選イタリアVSポーランド戦 ( 3-0 )
 後半6分にゾラに代わって出場18分にディノ・バッジョからの
 パスを受け素晴らしいドリブルで相手DF・GKをかわしゴール
 チームメイトのディリーヴィオ・ラバネッリらから手荒い祝福を受ける
 バッジョ「私にとってアズーリに戻れた事が最大の歓びなんだそしてゴールまで
 決めることができた。 このゴールは私のこれまでの人生の集大成だ
 この日まで多くの時間が流れ悲しみに沈んだこともあった
 しかし、これで全てが変わる」と。 続けて「A.Cミランを出る事は考えたくない
 が、もっと試合に出なければ」と答える
 翌日のガゼッタ・デッロ・スポルト紙には「イタリアにバッジョ これぞ幸福!」
 ラ・スタンパ紙「イタリアはパリへ素晴らしいバッジョとともに」との見出しがおどる
 '96-97シーズン終了後のインタヴューでサッキ監督との関係について聞かれ
 「彼と私の間にはまだアメリカW杯での遺恨が残っているんだ
 細かい事は、今は話せない
 いつかそれについて本でも書くよ(笑)
 彼がきちんと謝罪してくれれば別だけどね
 とにかく調子のいい時は使うと約束しておきながら口ばかりで
 実際はプレーさせない彼のやり方は理解できない
 私がどんなに調子が良くても使ってもらえない事は度々あった」と答える
 そして「今はA.Cミランのことだけを考えたいがW杯に出るためには・・・・・・・・・
 未来の事は誰にも分らないとりわけカルチョの世界ではね」と話す
 6月2日
 A.Cミランの来シーズンの監督に再びファヴィオ・カペッロ氏が就任
 監督と話し合い「戦力外」と通告される
 H13年5月26日・追加
 カペッロが、スペインのレアル・マドリ―ドの監督の時に、バッジョから電話をした
 「翌シ―ズン、ミランで私を使う気があるのか ??」と
 カペッロは、「若手中心のチ―ム作りを考えていると」 答える
 7月
 バッジョのパルマへの移籍のニュースが日本の一般誌も含め報道される
 しかし、パルマのアンチェロッティ監督が「バッジョはパルマのシステムに
 あわない必要ない」と発言。 結局パルマへの移籍は無効となる
 ゾラを放出したパルマが同じタイプのバッジョ獲得に乗り出すという不可解な
 移籍騒動は立ち消えとなったが、それは結果的に大正解となった 
 H13年5月26日・追加
 パルマ騒動に関するバッジョのコメント
 「私がパルマに加入すれば、レギュラ―争いが激化する
 それを恐れている選手がいて、その事でアンチェロッティ監督が反対した」
 「それをメディアが、大袈裟に書いたということ」